日記・談義坊 /

南の特報記事に36年前の村議選初陣を想う。


 村議4期、市議3期、27年近くも議員をしてきましたが、選挙に関しては、いろいろありました。選挙って嫌いです。好きになれません。
 南日本新聞で「市町村議選 新人に壁」の特集記事を読んで、36年前、初めて村会議員選挙に立候補した時のことをほろ苦く思い出すことでした。
 双子の娘たちの子育ては、大阪では大変難しいとの思いから、妻美代子さんの反対を押し切って、Uターンしてきたのです。働き場所も確保しないまま。百姓は、ど素人ながら15年間米作りもやりました。
 そして、38歳のとき、わけもわからず、立候補したのです。田舎の選挙のやり方も含め、本当に右も左もわかりませんでした。長浜の電気屋さんにスピーカーなどセットしてもらって、5日間の選挙戦に入ったのです。
 ただ、下甑村は、6つの集落が点在していることもあって、各集落から多くの立候補者がでていました。今話題になっている候補者が足りないなんてことはありません。初挑戦の時は、定数14に21名ほどの立候補だったように記憶しています。街宣車で名前を売り込んだり、街頭演説をしたり、演説会をしたりってことは、村議選挙では誰もしません。地縁・血縁の強い絆で、立候補するときは、票数も固まっているのです。
 私は、美代子さんと二人で、オーソドックスに街宣車を走らせ、各集落で街頭演説をしたりの運動でした。
 結果は、74票。次点の人の半分にも届きませんでした。泡沫候補もいいところです。

 私は、楽観主義者ですから、人間どうにか生きていけるんだと、百姓のまねごとをしたり、漁協組合の手伝いをしたり、海星中学校の先生が不在ってことで、臨時で講師を請け負ったり、自治会(公民館)の役を仰せつかったり、貧乏暇なしの生活を送っていたのです。
 4年たって、選挙の時期が来ました。「選挙なんて、金輪際ゴメンだ」と思っていたのですが、成り行きで、立候補することに。選挙下手の私は、やっぱり、シンプルに原則的な運動を展開。ただ、知人も増えてきたことから、あちこちでミニ集会(個人演説会)ができました。
 街宣車で走る候補者も出てきて、うれしいことでした。
 おかげさまで、新人議員としての活動を始めることになったのです。前回、落選して一緒に当選したメンバー3人で、勉強会など開きながら古老の議員さんに負けないように頑張ったことも懐かしく思い出すことです。
 私は、地区を越えて、長浜の議員さんなどからも可愛がられて、新人でありながら、「監査委員をしろ」と指名されたりしました。この監査委員の経験は凄く勉強にもなり、ありがたいことでした。他にも、同僚議員がやりたがらない「議会便り編集委員」を買って出たり、議員としての活動は精一杯勤めました。

 3期、4期は、議長の重責を担うことになりましたが、最後、合併問題で、議会も村も二分することになってしまい、自分の力不足を思い知らされ、皆さんに申し訳なく思い、悔やまれる最後となってしまいました。

 新聞の記事を読みながら、なんで、議員なんどになったんだろうと、思い返すことでした。
 もっと他の生き方もあったんじゃないかと、思ったりもしますが、不器用な私では、たいしたことはできなかったでしょう。