日記・談義坊 /

雨宮処凛さんの言葉「ダメな大人であれ」


 雨宮処凛さんの「子猫の肉球」を一気に読んだ。この本は、08年から始まり、現在も続いている新潟日報での連載、「生きづらさを生きる」を編集、構成し直したエッセイ集である。彼女との出会い、彼女の活動については、いつか語るとして、初めて手にした彼女の本「子猫の肉球」のほんの一部を紹介しよう。処凛は「かりん」と読むんだそうです。「子猫の肉球」っていう書名も面白そうですよね。

 「今、生きづらい時代に生き、追いつめられている子どもたちに、私たち大人ができることはなんだと思いますか?」
 そんな質問をよく受ける。そのたびに私は答える。答えは簡単だ。自分のダメな部分を積極的に見せること。
 これから学校の先生になるという人たちへのメッセージには「ダメな部分を見せる先生であってほしい」と書いた。
 「ダメじゃない大人」、「完璧に近い大人」たちは「正論」攻撃で子どもたちを叩きのめしていく。例えば「逃げるのは卑怯者だ」とか「どんなに辛くても歯を食いしばって耐えろ」だとか。そんな「正論」は、時には子どもを殺してしまうほどの力を持っている。
 「正論」の呪縛が、結果的には自殺の引き金になってしまうかもしれない。だからこそ、「尊敬される大人」は時には危険だと思うのだ。尊敬される大人として人を追いつめるよりも、まったく尊敬されず、子どもの愚痴に耳を傾けられる大人の方がずっと魅力的だ。
 いじめの問題にしてもそうだ。「負けるな」とか「悔しくないのか」とか「やり返せ」なんて言葉は、何の役にも立たないどころか害にしかならない。
 「自分もいじめられた経験がある」という大人の体験談。「自分もそうだったんだよ」と言ってくれる大人がいたら、どんなに救われただろう。
 「いじめられ体験」は、程度の差はあれ、誰だって経験しているはずなのだ。小中学校、高校を通して一度も「いじめ」や「仲間外れ」「無視」などに遭わなかったという人はおそらくほんの一握りしかいない。しかし、そんな過去を持つ多くの大人たちはそれを語りたがらない。
 自分が語りたくない「惨め」で「ダメ」な過去を語ること。それはきっと、今生きづらさに苦しんでいる人々には一番「効く」のだ。封印しているのは勿体ない。

 端折り、はしょりで、スジだけになり、彼女の意図が伝わったか疑問だが、「りっぱな大人」より「ダメな大人であれ」ってことのようです。