日記・談義坊 /

子供の頃の思い出②


 先日、75歳の同窓会を手打で、秋季小中地区合同大運動会に併せて開催したのです。今回が最後の同窓会になる可能性もあるってことで、手打での開催となりました。
 同級生って、いくつになっても、子ども時代に返って「おいが、わいが」の世界になります。女性軍の元気なこと、若いこと。と言っても、旦那の介護や自分もあちこちの劣化を感じるお歳になっています。歳のこと病気のこと忘れて、夜中まで、昔はなしに花を咲かせることでした。
 YOさんが、小学校2,3年生の頃の私の祖父のことを話題にします。私でさえ記憶が薄れているのに、よく覚えているもんです。
 祖父とは、一緒に暮らすこともなかった母方の祖父です。果物が出来たときにはミカンや柿を、時にはお呼ばれした法事の食べものを紙に包んで学校の教室にまで私を探して渡しにくるんです。
 私はと言えば、同じ小学校で教員をしていた叔母のところに持って行くのでした。
 祖父としては、内孫もいっぱいいるのに、母に代わって私のこと人一倍可愛がってくれていたのでしょう。小学校4年生の時亡くなりました。お通夜やお葬式のこと良く覚えています。葬式の行列では、一番旗を持って歩いたことを懐かしく思い出します。その後、祖母の華雄(ハナばあさん)が15の島立をするまで陰ながら応援してくれたんだと思います。高校生のとき亡くなったのですが、お葬式には参列できませんでした。

 子どもの頃の思い出いろいろあります。
 小学校六年生の時、手打小の教員だった叔母は平良小へ、手打中学校に勤務していた父は、国分実業高校へと転勤になります、また、母は、病弱だった弟の治療入院のために、鹿児島市の病院へ。5才だった妹は、叔母が平良に連れて行って育てたのでした。
 私は、「新しい家を守るんだ」と手打に残って暮らしたのでした。親戚の家は沢山あるし、伯母たちたちも泊まりに来てくれるし、寂しいと思ったことはありませんでした。
 父も母もいないこともあって、遊びぼうけていましたが、楽しい子ども時代でした。
 また、子どもの頃の思い出を語りましょう。今日は、この辺で。